精神医学総論

高田馬場診療所

精神医学総論

精神医学と漢方医学について、支援者や医療関係者だけではなく一般の方にも役立つように、過去に行った臨床心理士や精神科研修医向けの講義内容等をまとめてみましたので御参照下さい。中学生程度以上であれば理解できるようにと留意しました。●で項目を分けていますが必ずしも連続してはいませんので、どこからでも参照してください。

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●精神医学の目的  ~いかに人の心、精神のありようを理解し、治療し得るか
理解されるということは外科手術に喩えると輸血をされることと同等である(笠原嘉)
独りで孤絶させられること、誰にも分かられないこと、共有されないこと、が人間にとって最大級の苦悩であろう。

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●“診断名/病名”に囚われないようにしよう ~どうしても名付けたくなる人間の習性。現象そのものを観ることから離れてしまう。特定の見方、技法にあてはめて(プロクルステスの寝台)、臨床のこころが置き去りにされている状況をよくみかける。多くの場合、病名が独り歩きする。単なるレッテル貼りとなる。
精神分析から脳科学まで学んでも、それは参照枠frame of referenceである。人間の実存そのものを名付ける、概念づけるわけにはいかない(実存は本質に先立つ サルトルSartre)。

『・・この「名づけ」の行為は、われわれとは価値観・規範を同じくしない人たちをわれわれとは異質な人とみなし、その「名」のもとに「囲い込む(=閉じ込める)」という作用をもつ・・ 自分との間に一線を画すことによって、われわれは秘かに安心する。・・この半ば意識的半ば無意識的な心的操作を経て、市民社会の「内部」に精神病院という「外部」がいくつも造られてきた。・・ひとたびこの種の「名づけ」が生まれるやいなや、その名づけられたコトの周辺までもが、その「名」のもとに吸収されてゆく・・「精神分裂病」という「名」が生まれたために、精神分裂病ではないその周辺の病態までもが、どれほどこの「精神分裂病」の中に組み入れられてきたことか。ひとたび「概念」ができあがるやいなや、その概念は意外な広がりをもち、多くの事態を巻き込んでゆく。』
 「精神分裂病」はたかだかこの一〇〇年の病気ではなかったか? 松本雅彦 より抜粋

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●臨床におけるタブラ・ラサ
『治療者は患者に対して決して予断・先入観をもってはならない。なるべく多くの理論や考え方を幅広く学びつつも、ひとりの患者の前に治療者として相対したときは、その学んだことの全てを棚上げして、まっさらの白紙の状態で患者に向き合わねばならないのである』

 タブラ・ラサ 武野俊弥 精神療法 第31巻第5号 より抜粋

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●障碍 について
『・・「障碍」の「碍」は私の独断で使わせてもらった。この字は日常には電柱の「碍子」(insulator)にしか使わず、「(電流が流れるのを)さまたげる」という意味である。むしろ「障」に近く、「障害」の「害」よりもよいであろう。「障がい者」などと当事者が書いておられるのはいたましい。この種のことに医師は鈍感である。・・』

 DSM-V研究行動計画  訳者(中井久夫)あとがき より抜粋

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●精神科的状態像の大まかなみたてについて

○外因性(器質因)
実際に脳が既知の物理的なダメージを受ける。身体疾患(脳炎、甲状腺疾患、膠原病、・・)、認知症、てんかん、薬物性、脳血管障碍、外傷、・・

○内因性
統合失調症、気分障碍(双極性障碍、うつ病) (精神疾患あるいは精神科の病気、というときはこの内因性疾患を通常指します

○心因性
心理的な反応によるもの(心因反応)  神経症(ノイローゼ)

 ○その他(摂食障碍、依存症、トラウマ病理・・などの個別的な病的状態  内因性ではないし、一概に心因性とも言い難い)

 ○素因(生来のもの)としての発達障碍特性、パーソナリティ特性

外因→内因→心因 の順に鑑別(=病状の見立て、区別のこと)します。
例えば、抗NMDA受容体脳炎(初期の症状が統合失調症と類似)という外因があるのに、それを看過して統合失調症(内因)と誤診してしまうと、とてもまずいわけです。

実務においては、外因については見過ごしてしまうことはあっても事後的にも診断困難ということはあまりありません。精神科だけで診ていくよりも、身体科と連携することが多いでしょう。
よく問題になるのは、内因なのか心因なのかが微妙で迷わしい例です。また、素因としての発達障碍(とくに自閉症スペクトラム障碍=ASD)と、内因性疾患(とくに統合失調症)の区別は常々問題になります。ASDの外延(どこまでをASDと呼ぶべきか)等については別の項で解説しようと思います。 

 参考:精神科における予診・初診・初期治療 笠原嘉
 診察室の陰性感情 加藤温

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●一般的に使われる診断基準について。(大分類のみ記載)
操作的診断基準、と呼ばれます。項目にあてはめて(操作)、診断をつけるという意です。
研究や統計、診断書などで病名が必要な場合などはこれらの操作的診断基準を使用します。治療をするために必要というわけではありません。

○ICD-10(WHO 世界保健機関)
F0 症状性を含む器質性精神障害
F1 精神作用物質使用による精神および行動の障害 
F2 統合失調症,統合失調症型障害及び妄想性障害
F3 気分(感情)障害
F4 神経症性障害,ストレス関連障害および身体表現性障害
F5 生理的障害および身体的要因に関連した行動症候群
F6 成人の人格および行動の障害
F7 精神遅滞
F8 心理的発達の障害
F9 小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害(F90-F98)および特定不能の精神障害(F99)

ICD-11(邦訳されたらICD-10に代わりこちらが使われる予定です) 

○DSM-5 (米国精神医学会による精神障害の診断と統計マニュアル)
1 神経発達症群/神経発達障害群
2 統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群
3 双極性障害および関連障害群
4 抑うつ障害群
5 不安症群/不安障害群
6 強迫症および関連症群/強迫性障害および関連障害群
7 心的外傷およびストレス因関連障害群
8 解離症群/解離性障害群
9 身体症状症および関連症群
10 食行動障害および摂食障害群
11 排泄症群
12 睡眠―覚醒障害群
13 性機能不全群
14 性別違和
15 秩序破壊的・衝動制御・素行症群
16 物質関連障害および嗜癖性障害群
17 神経認知障害群
18 パーソナリティ障害群
19 パラフィリア障害群
20 他の精神疾患群
21 医薬品誘発性運動症群および他の医薬品有害作用
22 臨床的関与の対象となることのある他の状態
*今後の研究のための病態■減弱精神病症候群(準精神病症候群) ■短期間の軽躁病を伴う抑うつエピソード ■持続性複雑死別障害 ■カフエイン使用障害 ■インターネットゲーム障害 ■出生前のアルコール曝露に関連する神経行動障害 ■自殺行動障害 ■非自殺的な自傷行為

参考:操作的診断基準(精神疾患の) 脳科学辞典
『精神医療・診断の手引き―DSM-IIIはなぜ作られ、DSM-5はなぜ批判されたか』大野 裕
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス

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●精神科の“病名”、“診断名”に纏わる事情。

○患者さんの病状の“実態”
~実態/存在そのもの?心身(心脳)問題も解かれることがない

○精神科医の(頭の中の)みたて、考え、認識
~医師間でも相当ばらつく

○診断名
~上記の操作的診断基準も、なるべく実証的・科学的にということではあるが恣意性を免れない

 上記三者(存在-認識-言語)が、一致し得ない。(本質あるいは階層が異なる)
 
 竹田青嗣がよく挙げる、ゴルギアス・テーゼ(存在-認識-言語の謎)

参考:『哲学とは何か』『現象学入門』竹田青嗣

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●発達障碍(に限らずであるが)の診断が医者によって(大きく)ばらつく理由や背景について、現象学的に考えてみた:

対象者の疎通性の違和感(例えば、カクカクとしたぎこちない挙措、視線の動きの不自然さ、文脈/雰囲気/場の空気/他者の心情の読み取りがうまくできないのだろうなというこちらの感受)を覚知すること(ノエシス。自分の現前意識にとっては疑えない感じ。不可疑なもの) 


これは一般に自閉症スペクトラム(ASD)と呼ばれている社会脳の機能不全と考えられる様態であろうか等と諸々思考する。(ノエマ、超越、解釈。可疑性あり)


他の人々もその様に捉えるだろうか、いや別の様に捉えるだろうか(他我の認識・信念への自我の意識。間主観的なるものを自らの内で働かせて内省、考察する)


その他所見や病歴も参照、総合し、実際のケースカンファレンス(哲学のテーブル)において、独我論や相対主義に陥らずに他者達と討議し、より妥当な理解、解釈の仕方を皆で探り、支援的展開を創出していく

*ASDという“本体”はない。言語ゲーム(Wittgensteinヴィトゲンシュタイン)に於いて、そう考える、そう呼ぶのが妥当だろうと人々が確信、同意するということ。

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●社会は言語ゲーム(Sprachspiel)である

ここで、社会を見渡してみよう。
人びとは、言葉をしゃべっている。「机」も、そうした言葉のひとつ。言語は多くの言葉からなり、それぞれの言葉が意味をもっている。
それ以外に、人びとはさまざまにふるまっている。
畑をたがやす、食事をする、服を着る、子どもを育てる、葬式をする、・・。それらにも、規則(ルール)がある。
こうしたことが、みな、言語ゲームである。
社会は、言語ゲームのうず巻きである。
言語ゲームは、私たちが言葉を用いることを可能にし、私たちが住むこの世界を成り立たせていることがらそのものである。
 ・・
二人が、何かやっている。
そこを、私が通りかかる。
何をやっているのだろう。しばらく様子をみているが、何をしているのかさっぱりわからない。
一人(石工)がなにかどなると、もう一人(助手)が、あわてて何かを持っていく。また何かどなると、また何かを持っていく。
ずっとみていると、だんだん、二人が何をしているのか、わかってくる。「ブロック」「柱」「タイル」「梁」の4種類の石材があること。二人は、石工とその助手で、石工が石材の名前(4つのどれか)をどなると助手がその石材を持っていくこと。二人はそうやって、何かを建築していること。……。(中略)これを、「2人4語ゲーム」とよぼう。・・さて、この人数を増やし、言葉も増やして「N人n語ゲーム」にしたらどうか。それこそ、私たちの世界(社会)そのものではないか。
 N人の人びとが、n語を用いて何かゲームをしている。そこを、私が通りかかる。いったい彼らは、何をしているんだろう。そう思って、見ているうちに、だんだん、何をやっているのか、わかってくる。そして私も仲間に入れてもらう。

はじめての言語ゲーム 橋爪大三郎 pp.122-124より抜粋
哲学探究 L.ウィトゲンシュタイン 鬼海彰夫訳 p.22

言語ゲームの外に何か(神とか真理とか本体とか)があるわけではない、他者とやりとりしながら自分のアタマで考えていくことなのだ(これを哲学者フッサールは「本質観取」と呼んだ)、ということが腑に落ちたのは私にとってとても大事なことでした。
奇異な考えや、陰謀論、カルト的カリスマ的な何かから適切に距離をとるためにも肝要なことと思います。理性の暴走を防ぐ、とは哲学者カントが「純粋理性批判」で言わんとしたことでもあります。

参考:NHK100分de名著 カント 純粋理性批判 西研

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●ジャッジメントを手放すということ
 『私の親しい友人で、小児期の性被害や婚姻時のDVなど、複数の、かつ深刻なトラウマ体験を持つ人がいる。もちろんそれに応じた複数の病状を経験しており、いずれも深刻な症状を呈していたようだ。今までの半生を聴くと、「よくぞ今日まで生き延びてくれた」と言いたくなるタイプの人である。
 私と彼女とは純粋に友人関係にあり、私自身、治療者として関わったことは全くないし、これからもないと思う。私たちはいわゆる「何でも話せる間柄」で、私は彼女の話をよく聴くし、自分の話もよく彼女にするが、お互いにアドバイスする習慣がないので、治療的な助言をしたことももちろんない。
 彼女はこの頃いろいろなところで被害者として語る役割を引き受けている。つい最近も、治療者の学術的な集まりにおいて当事者としての講演をした。多くの人が彼女の話に感銘を受けたようであるが、事後に回収した感想の一つに「Aさん(私の友人)の今後が心配になりました。Aさんには長期的なカウンセリングが必要だと思います」というものがあったそうだ。その感想は、彼女にとっても、また、彼女をよく知る私にとっても、あまりに荒唐無稽に感じられてむしろ笑ってしまったが、もちろん愉快な体験ではなかった。
 ちょうど本書を書こうとしていた私は、まさにこういうことなのだ、と思った。その感想を書いた人はさすがに極端な例だとしても、これがトラウマに関わる治療者が陥りがちな構造であることは間違いなく、私たちが常に自戒しなければならないことである。
 Aさんは確かにトラウマ体験をした人であり、かつては患者でもあったが、現在は何らかの診断基準を満たす状態にあるわけではない。既に何らかの診断基準を満たすとしても、その場には、当事者として語ることを求められて立っていたのであり、患者として治療を受けに行っていたわけでもないし、治療の必要性の有無について専門家の意見を聞きに行ったわけでもない。
 つまり、いろいろな意味で、その感想を述べた人が下している「評価」は、本人の現実とはほとんど関係のない、「Aさんについて治療者が作り上げたイメージ」についてのものになっている。治療者の思考は、Aさんの話を聞いているうちに、実際のAさんから離れ、自らのデータベースの中に入り込んでいったのだろう。この、「治療者が患者の現実を離れる」という現象は、もちろんいろいろな場面で起こりうるのだが、トラウマ患者においては特に起こりやすいし、その弊害が特に顕著に表れると感じている。
 ・・未経験のものに対して、私たちは不安を感じやすいので、いろいろな評価を下してみたり仮説を当てはめてみたりして、枠にはめることで、「既知のもの」として安心を得ようとするものである。Aさんに「長期的なカウンセリングが必要」「今後が心配」という評価を下したくだんの治療者も、あれほど深刻な被害に遭ったのに、ろくな治療を受けたこともなく、しかも、現在生き生きと楽しげに暮らしており、加害者へのゆるしにすら言及しているAさんを、自分が知っている枠にはめようとして必死だったのだろう。おそらく、Aさんの楽しげな様子や、ゆるしの姿勢が、「否認」や「防衛」に映ったのではないかと思う。しかし実際にAさんをよく知っている私には、それが否認でも防衛でもないことがよくわかっている。つまり、その治療者の見立ては全くはずれており、そんな姿勢で治療が行われるのだとしたら、むしろ治療が新たな外傷体験を作ってしまうのではないかと危惧する。
 また、現在治療を求めているわけでもない人に、・・「治療が必要」と判断する姿勢にも疑問が残る・・特に、トラウマ治療に関わる場合、治療のタイミングにも本人のプロセスと選択を尊重する必要があると私は思っている。想定外のタイミングで突然治療の必要性を通告されることは「奇襲」のように感じられるものであり、トラウマを抱える人にとっては新たな傷を生みやすいだろう。』

 トラウマの現実に向き合う 水島広子 冒頭部分より抜粋

・・『「治療者は病気の専門家であって人間の専門家ではない」という、治療者の傲慢さへの戒めの上に立ち、治療者、家族などの周囲から「ジャッジメント」を下され、「コントロールされる」とき、人は弱〈なり、これに代わって「アセスメント」を供給され、自己を「コントロール」していると感じるとき、人は強くなる。この原則はそのとおりとしか言いようがない。しかし、この原則のもとに現実に向き合うとき、いかに落とし穴が多いことか。たとえば「かわいそう」という言葉はジャッジメントであり、「専門家が答えを知っている」という態度は患者をコントロールする。認知症、担癌患者、難病患者の治療において、それぞれどのような現実に直面して、なおこの原則を守れるかを考えてみることは、これらの患者が置かれている現状を大きく改善するきっかけになる。しかし、それはマゼラン海峡を通過する操船者のような細心の注意と反省力を必要とするだろう。人の優位に立って人を支配することが医療者になる隠れた最大の動機、だからである。それが治療者の、おそらく最大の、燃え尽きの原因になっている。』

 私の「本の世界」 中井久夫コレクション p.328 より抜粋

*judgementではなく、assessmentを  そして、reverie(Bion)(もの想い。心の中で想いを燻らすこと)を
*援助者(あるいは人間関係全般)の“力”の問題  愛なきところに力が蔓延る

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●Q:東洋医学の、移精変気の法というのがありますが、これは精神療法みたいなものですか?
移精變氣論篇(黄帝内経素問)
『黄帝問日 余聞 古之治病 惟其移精變氣 可祝由而己 今世治病 毒薬治其内 鍼石治其外 或愈或不愈 何也』
 黄帝が質問していう。私が聞いているところでは、昔の治療方法は、ただ精神を動かし気分を転換させ、お祈りや呪いをするだけで病状を取ることができた。今の世の治療方法は、ドロドロにした薬草を飲ませてからだの内部を治療し、鍼や石鍼(メス)で体表を処置して外部を治療する。その結果、治癒したり、治癒しなかったりする。その理由は何か。
 岐伯が答えていう。昔、人々は禽獣の仲間として生活しており、寒気をさけるにはからだを動かして暖を取り、暑気をさけるには日陰に入って休んでいた。精神的には眷恋思慕する係累もなく、肉体的には宮仕えの堅苦しさもない。この様に、虚心無欲で落ち着いた世の中では、心身の抵抗力が充実していて、邪気は体内深く侵入して病気を起こすことができない。病気がないのだから、毒薬でも内臓の病を治療することができないし、微鍼や砭石は体表の病を治療することができない。そこで精神を動かし、(気分を変え)呪をして病症を取ることができるのである。現在の世の中はそうではない。心配事は心に纏わり付いて離れず、肉体の重労働はからだを痛める。世の中が不安になっただけではない。自然界でも季節の移り変わりの順序や寒暖の推移は不規則になり、季節外れの風がしばしばやって来るし、それにつれて、人体に虚(機能低下)をもたらす邪気が朝夕の汐の様に去来する。
 黄帝内経素問訳注 第1巻 家本 誠一 pp.361~

A:移精変気は、気そらし療法と言えば近いかもしれません。身体的あるいは精神的症状は、気にすればするほど悪くなるということがよくあります。適当に気が逸れていると、意外と症状はお留守になるということがあります。以前観たテレビ番組の中で、がん患者さんが家族や支援者と談笑していた時間は痛みを感じずにすんだ、という内容があり、感銘を受けました。

『・・(茶屋の)女将は、「主人が気うつ状態で寝込んでいて困っています」・・主人は五十がらみで確かに目に力がなく覇気もない。寝ている部屋は暗く、気分をさらに暗鬱にさせた。三喜は、・・「もうすぐ足に腫れ物ができるかもしれぬ。気分が塞ぐのは、その兆しのせいだ。これからは足にどんな腫れ物ができるか注意してみていなさい」・・半月ほど後、・・主人が明るく立ち働いていた。「寝ているのが嫌になった」「そうか。今後、足に腫れ物が出ることもないだろうから、安心して働きなさい」 ・・「三喜の診断では、茶屋の主人は雨が降り続いて売り上げが落ちているのが気になって仕方なく、それを病気と称して逃げ込んでいた。しかし、病気でなくても、寝ていると人はそれだけで体調が悪化する」三喜は、閉じこもっている主人を寝床から動かす必要を感じた。そこで、とらわれている心を何か別の物に向けさせ気分を変化させようとした。別の物として腫れ物を出した。「精を移して気を変えるというのが三喜のとった治療法だ。薬無用。人の機微をとらえて病を治した」 ・・道三はますます三喜に対して関心を抱いた。』
 小説 曲直瀬道三 乱世を医やす人 pp.114-115 より抜粋

上記は、一見優れた治療者像の話でありますが・・ ~させるという使役形の態度に陥らないようにという留意は肝要です。
気そらし療法は大事であるということの共有をすることが肝要と考えます。それがないと、意識せずパターナリズムに陥って、相手の主体性を損なうようなことになりかねないと思います。(手八丁口八丁ということではいけませんので・・)

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●メスメリズム ~治療者が陥り易い罠
コントロール、支配(への欲求) 治療者はある種の“力”を持ってしまう。それは暴力でもある。

『・・神田橋は毀誉褒貶がはなはだしい臨床家でもある。その実践が正統の精神分析の範疇に収まるものではないからだ。それはたとえば神田橋(2019)の集大成ともいえる『心身養生のコツ』をひもとけば一読して了解される。そこには「Oリングテスト」「電磁波防御」「地球におんぶ」「泉の気功」など、臨床心理学よりも「野の医者」の方に親和性のある言葉が記されている。実際、精神分析家の松木(2017) は『精神分析研究』という正統の言説を担う場で、神田橋の著作を書評して、深い違和感を表明している。・・
・・医療人類学者の北中(2018)が、神田橋臨床を「「東洋的」精神療法」とみなし、ローカライズされた心理療法と理解したことは慧眼と言わざるを得ない。北中は、神田橋を「身体から心に働きかけるオータナティブな哲学」に基づいていて、「一度東洋的思想(伝統医療)を通した「身体」と「心」の結合を可能にした」と評価している。
 松木が精神分析からの逸脱と捉えたところを、北中は東洋医学の伝統に根差した土着化と捉える。問題はそのいずれの評価が正しいかではない。松木の視点からは神田橋臨床が心未満への偶発的な逸脱としか見えないが、北中からは社会歴史的な文脈における必然的な出来事に見えることこそが重要である。すると、日本の臨床心理学史が、心理療法の東洋的ローカライズの歴史として見えてくる。
・・再三主張するように気と心はいずれが優れているというものでもない。松木の臨床で助かる人もいれば、傷つく人もいるし、神田橋もまた同じだ。・・』
 平成のありふれた心理療法 東畑開人 治療は文化である‐治療と臨床の民族誌pp.12-13 より抜粋
 参考:野の医者は笑う: 心の治療とは何か?  東畑 開人

援助職は、メスメル化しないように気をつけねばなりません。治療者の不思議な力でなんとかする、というような呪術的、メスメル的様相に傾かないようにしないといけません。治療関係含めどんな人間関係も、対等であるべきと考えるのは妥当でしょう。特定の教祖がエラい宗教のテーブルではなく、哲学のテーブルで皆が対等に共有できるということでなくてはなりません。

参考:宗教のテーブル・哲学のテーブル
中学生からの哲学「超」入門 自分の意思を持つということ 竹田青嗣 p 64

フランツ・アントン・メスメルFranz Anton Mesmer(1734- 1815)
・動物磁気 animal magnetism ~気功のようなものだろう。不思議な力らしきものをもつことの快感に酔っただろうか。
・“転移”などの力動精神医学のことがらを後生が熟考する契機は提供した
・『しかしメスメルの弟子たちの数が多くなり、熱狂的、狂信的となるにつれて、メスメリズム運動は当初の基準から脱線して、人々に信用されなくなった。次第に放埒な思弁やオカルティズムと習合し、果てはイカサマ療法と混交した・・』
 無意識の発見 第二章 力動精神医学の成立 p.96 エレンベルガー著、中井久夫訳

意識して自分の中のメスメル的なるものに抑制をかけないと、異様で不適切な方向へいく懸念は常にある。
しらない内にメスメリズムに吞まれているということのないように・・
メスメル・トクダになってはいないだろうか?同僚同士で指摘し合っている。
標準化に乏しい精神科、心理学、東洋医学の領域においてはいっそうの注意が必要であろう。

参考:心理療法の光と影 援助専門家の《力》 グッゲンビュール・クレイグ
嘘を生きる人 妄想を生きる人―個人神話の創造と病 武野 俊弥
オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義 大田 俊寛

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●Q:転移と逆転移について教えて下さい
A:広義から狭義まであると思いますが、広義には、自分の中にある元々ある感情を、相手に転じて移す、ということです。狭義には、精神科治療や心理治療の中で、自分の中にある(未解決な)情動や感情(例えば、自分の親への恨み・怒り感情)を、社会的枠組(成人同士の配慮ある関係性)から外れた形で、相手に向けてしまうことを言います。転移は、患者→治療者。逆転移は、治療者→患者。
古くはフロイトと共に「ヒステリー研究」を書いたブロイアーが、アンナ・O嬢(同書の症例。実名ベルタパッペンハイム、社会福祉の領域で有名な人)との転移・逆転移のために逃げ出したというような話や、ユングのザビーナ・シュピールラインを巡る結構とんでもない話(映画『危険なメソッド』参照)が有名です。
穏やかな陽性転移は治療的ですが、激しくなるとなかなか大変です。できることとできないことを明瞭に伝える、時間や場所の枠組をしっかり設える、というようなことが肝要と思います。
なかなか人間関係を築けてこられなかった方が、治療者には転移感情を向けることができた、ということを一つの大事な表現として捉えて、治療的に展開できるとよいです。なかなか難しいですが・・
「どんなに好きになってもなられても、生きていく道はひとり」と、かつて先輩に教えられたことがあります。

相手をジャッジせずに誠実に対応していれば、基本的には大丈夫なのだと思いますが、なかなかそうできないこともあると思います。相手のニーズを慮るゆとりがこちらになかったり、自分の中の未解決な問題を相手に投影して陰性感情を暴発させてしまう(投影同一視)ような場合、関係性が壊れて、修復できなくなってしまうこともあると思います。
治療者や支援者が逆転移感情に悩まされる場合は、まずそれに気づいて、疲れを癒して、全体状況を捉え治す。自分の心的様相も捉え直して、認識の光をあてる。精神分析家のBion(ビオン)が、Reverie(レヴァリー、もの想い)ということを言いましたが、喩えてみるとお釈迦様の掌の上に自分も相手も居るようなイメージで、自分と相手の心への想いをくゆらす感じ、でしょうか。
 参考:診察室の陰性感情 加藤温

『・・長期間続いた相談関係が途中からこじれてゆく経緯には、互いの言動の本意について、とくにセラピスト側の思考についての説明的な開示がおろそかである場合が少なくないのではなかろうか。相談関係の展開の中で、このような様相については、いわゆる転移、逆転移という言葉で説明されることも多いようだが、実際はやりとりの肌理の細かさが足りないことが背景になっている場合も少なくないと思う。セラピスト側では、専門性を支える理論(時に思い込み)に基づいているつもりであることが、このこじれの修正を妨げる場合もあるのではないだろうか。クライエントが発する不満、抗議、クレームの微かな兆候に、あるいはクライエントではない日常の人間関係におけるそうした兆候は、自らの共感性への警鐘であり、ずれの修正の良い契機であるととらえたい。』
 村瀬嘉代子のスーパーヴィジョン p.9 より抜粋

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●Q:患者さんの家族との関わり方について
A:
多くの場合、協力してくれるように働きかけます。
治療者-患者の二者関係に閉じずに、オープンダイアローグ的に、医者からの一方的説明にならないように、(そのようなことが可能な状況であるならば)家人含めて複数で対等に話し合えるとよいと思います。(多声的、ポリフォニー)
精神的な不調について全く理解しようとしない家人もいるので(怠けだろ/気の持ちようだろ)、本人の自活できる程度に応じて実際に距離をとってもらったり、自活できなければいかにうまく心理的距離をとるかということを共に考えます。
稀ですが、被虐待状況などのため絶縁するよう励ますこともあります。束縛、罪悪感からの自由について話合います。
自立能力が低いのに突き放して自立を促すようなアプローチは危険なこともあります。何事も匙加減でしょう。

『・・裁判で弁護側証人として出廷した母のジョアンによると、銃撃に先立つ一ヵ月間、息子の状態は最悪で、三月六日にはニューヨークから落ち着かない口調で電話を寄越した。ホッパー医師に相談すると、「一〇〇ドルやって、グッドバイを言いなさい」と助言された。そこで翌七日にデンバー空港に戻ったとき、父は医師の指示に従って、当座の生活費として二一〇ドルを手渡し、帰宅せずに自活するように促した。法廷での証言で、父は「彼に、自分たち両親が非常に落胆していること、家に帰すつもりはないことを話しました」と述べ、自立能力のないヒンクリーを突き放してしまったのが自分たちの最大の過ちだった、と悔いた。このことから両親は深刻な罪意識をもつことになった。』
 精神鑑定の事件史p.34 第一章 レーガン大統領を撃った男 中谷陽二 より抜粋

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●プレイセラピー、精神療法の要諦 ~深奥なる心理臨床のために―事例検討とスーパーヴィジョン 山中康裕 遠見書房  pp.255-298「極めて落ち着きのない小学生への遊戯療法終結後に受けたスーパーヴィジョンの逐語記録」 をテキストとして考察。
*ADHDや反応性愛着障碍の要因があると思しき児。
*象徴性ということ(記号ではなく) 「お母さんが切る人として存在しているわけね」「どの場面が彼の心に凄く大きく焼き付いているのか」「一つのとらえ方に過ぎなくて、すべてそれでやっちゃうと問題なんです」「私が言ってることは一つの見方に過ぎんということをちゃんと念頭において」 「意味のもう一つ背後に入ると、・・」 ~独断論には陥らない。あくまで見方可能性であるということ。イメージの多義性。意味の重層性。
*治療の構造、枠組みということ 「構造というのは、いろんなことの条件がね、変化した時に何かというのが捨象できるからです。・・だから時間を守ることと空間を守ることってのが大事なんだと。なんで変わったかということが、だって、わからなくなるでしょう。・・それと、疲れてしまう治療者を守るという面があると。」
*自我の守り(ego-border/boundary、ego-strength) 
「結局子どもというのは、適切なケアがあったら、死にたいなんて絶対言わんのですよ。死にたいということは自分が守られてないということでしょう。自分がこの世に存在する存在の意味がね、自分に見えていないということ。それはどういうことかといったら、結局自分自身が存在することを受け入れてもらってないということでしょう。ということは、その一番の近親者、お母さんにケアを受けてないということ」「守りが薄いからねえ。結局自我のコントロールが少しね、希薄になって、結局その分だけ内的衝動が表に出ちゃうわけですよ。」

参考:少年期の心 山中康裕
セラピスト 最相葉月

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●症状の5つの意味(レオ・カナー) 
 医学的診察というのは,患者が来診し,その問題に関する知見をまとめ(診断),今後の治療方針を決定するまでの全過程をいう。まず患者が自分の苦しみについて援助を乞うが,そのときたとえば発熱,疼痛,発疹,めまい,息ぎれ,といったような事項について訴えるのが常である。ところが,医師の方は決して訴えられている事項そのもの,つまり症状が問題とは思っていない。百科辞典に羅列されているような症状というものはそれを惹起した何らかの原因の存在を示唆している。だから医師はこのことをよく知っていて,その原因を追求しようとするわけである。
 親が子供の行動上の問題をもってやってくる時も,やはり同じように心配になる事柄を羅列して訴える。親というものはややもすると,その訴え自体を治さなくてはならぬと思い込んでいて,医師が症候そのものを取り除くよう努力してくれるものだと期待していることがある。しかし,・・症状そのものにいくら注目してもその原因との関連性が解けないかぎり,なんの効果もないのが常である。・・

○入場券としての症候
医師の眼からみると,症状というものは,自分の興味をそそる入場券のようなものである。芝居の入場券というものは客の芝居についての好奇心を誘うが,その芝居の内容とは無関係である。券には芝居の芸題,劇作家名,一,二の主演者の名前,興行の場所と次第ぐらいが書いてあるにすぎない。だからいくら長くその入場券をながめていても,芝居そのものを観ない限り,あるいは観るまでは芝居については何もわからない。症状,すなわち子供の問題行動そのものは,ちょうど,この入場券のようなもので,それが問題なのではない。めったに問題そのものをそれが指示しているようなことはない。だからこの入場券だけにこだわっていたのでは何ら有益な方針は出てこない。もし,母親が子供に熱があるといって受診してきた場合,医師が簡単に熱さましの処方を書き,1日診て放っておいたとしたら,それは医師の誤りだといわれるだろう。発熱は一つの症状であり,それを診て医師ははじめてなんのための熱だろうと首をかしげる。熱一つにしてもそこにはいろんな原因が介在し得る。一過性の感冒のこともあるし,麻疹,ジフテリア,肺炎,マラリア,急性消化不良,またはその他のいろいろの疾患が考えられる。つまり発熱は決して病気そのものではない。いわば病気が介在しているという事実を示唆するものである。
 入場券,熱発,問題行動といったものは,それ自体に重大な意味があるのではないのであって,その裏に問題の芝居,病気,生活状況が隠されているから重大な意味をもつわけである。

○信号としての症状
警官が巡察中,大きな騒動を発見し,彼1人ではいかんとも収拾しがたいと思うと,他の警官の救援を求めるため警笛を吹きならすだろう。そして現場に到着した救援隊はその警官の警笛に従うのでなく,警笛によって急を知らされた事態がなんであるかを確かめ,その処理に努力する。このように警笛というものは人々をして現実の問題に注目せしむる重要な役割をなすわけである。しかし警笛そのものはそれ以上の何物でもない。
 これと同じように,問題行動というものは子供の心の中に何か悪い事件が起りつつあるぞということを警告しているのである。すなわち,みんなに早くやってきて,その良くないことが何であるかをしらべるように警告を発しているわけである。だから問題行動の大切な意味はその警告者としての役割であるといえる。したがって症状そのものにばかり注目して他を忘れるということは,警官が同志の警笛にばかりこだわっていて事態を忘れているのと同様,無意味だといってよい。警笛を吹いた警官は自分のなした行為をはっきり自覚しているが,問題行動をもつ子供は自分の問題行動の意味を知っていないのが常である。彼は自分がどのような警笛を鳴らしたか自覚していない。それどころか笛を鳴らしたことさえ知っていないことが多い。だから,それを観た者が事態のあるところを発見し,処置してゆかなければならないのである。

○安全弁としての症状
症状は入場券的能力をもっているから医師をしてその子供に注目せしむるきっかけを作る。それはまた一つの信号として症状の意味するところの情緒的障害を探し出す動機ともなる。ところが症状はもう一つの役割をももっている。
 子供の問題行動に道義的な価値づけが行なわれた時代があった。子供の盗み,嘘言,自慰などは「悪い」,「好ましからぬ」行動であり,叱責,処罰の対象にしなくてはならぬと考えられていた。
 Jackは「悪い」少年で,その妹のLouiseは問題のない「良い」,「やさしい」少女であるとされていた。 Jackが4歳で, Louiseが1歳のときその父は死んだ。母はまもなく再婚した。彼女はなかなか堅い意志をもち積極的で,やり手で,完全主義をもった人物であった。一方,その継夫はもの軟かな話し方をする気立てのやさしい人で,小さな大学の哲学の教授をしていた。彼は人を嫌い,日常の煩雑さを嫌う典型的な隠遁的教授であった。およそ浮世離れた雰囲気の中にあって,彼は書物という抽象の世界に彷徨していた。だから,彼の妻は彼にとって天の賜物であった。彼は全てを彼女にまかせた。ネクタイや食べ物の撰択はもとより,子供の教育から自分の授業に行く時間の決定まで全てを彼女まかせにした。
 Jackは母親の独裁に承服できず反抗した。彼はどの子供でも持っている独立心のために母と闘ったのである。まず彼女が「食事問題」と名づけている,強制される食事を正確に与えられた量だけ食べることを拒否した。母親が着せようとしたLittle Lord Fauntleory を彼は軽蔑して着なかったので、「反抗者」だとみなされた。母から仲良くするようにといわれた良い子達と遊ばずに,乱暴な友達と交わったので,ガラの悪い反社会的な傾向のある子だとされてしまった。そうした彼の謀反は始めは忠告されたが,それでは駄目だということになり,後には体罰を以って罰せられることになった。だから彼はこれに対し,敵意と盗みを以って応え,不良化して,街の「悪党」と化したのであった。最後には母親も彼に手を焼き,ポケットに200ドルの金を持たせて街から逐い出した。そこで16歳のJackは遠い街に行き,昼間は働き,夜学に通い,広告業をやり,立派な家庭の出身であるある看護婦と結婚し,立派な有能な市民となった。彼は心も身も健康である。
 一方,妹のLouiseは母親の食べろという物をなんでも食べ,彼女のすすめる着物を着て,彼女の選んでくれる友達と交った。つまり,彼女は母親に服従し,ついに無条件降伏の状態であったわけである。高校から大学に進学しても,母親のすすめるコースだけを取った。大学を卒業後,彼女は母親が世話してくれた職業についたが,そこで彼女は途方にくれてしまった。つまり,彼女は自分の意志の決定ができなかった。数日で職をやめ,帰宅したが,そのとき彼女は非常な失望と失意の状態であった。こういったことが数回あり,ついに破局がきて,彼女は自分に自己決定力と能力のないことを悲観し,手首を切って自殺を企てた。そして精神科に送られたのである。
 Jackはたしかに「悪い」少年ではあったが,この反抗的な「悪さ」が彼の心を護ったのであった。つまりこの「悪さ」が彼がややもすると母親の制圧の下に踏みつぶされそうになったとき,彼にとって安全弁の役割をしてくれたわけであり,彼をこうして虚脱から救った。彼が社会的に許されているような方法で母の暴力と闘うとしても,かかる反抗の態度以外に救いはなかったのである。かくして彼は内的な力を損われずに済んだのである。
 ところがLouiseはかかる安全弁を持っていなかった。だから彼女は破壊されるままになったわけである。

○問題解決の手段としての症状
Jackにとって症状は自己を救い,彼の心の問題を解決する有力な手段として用いられた。たしかにそれは手段として最良のものではない。もし彼の母親の態度が変ってくれていれば,もっと健康な解決の手段となり得たであろう。だから本質的に「好ましくない」ものはJackの行動それ自体にあるのではなく,むしろ,彼をしてこのような行動に走らせた要因の中にあったといえる。しかもその要因が強い力をもって作用していたので,彼としては自己を護るため敢えて冒険に身を委ねねばならなかった。もしその当時,批判的な眼をもってみる人達によってではなく,もっと理解のある人々によって助けられていたならば,彼ももっと穏健な方法で自己保持の道を拓くことができたであろう。
 問題行動は子供の情緒的安定を妨げるような問題を解く一つの方法として起ってくる。だから,ある子供に「問題の」行動がみられた場合,問題は「どのようにして,この特異な行動を矯正したらよいか」ということではなくて,「なぜ,この子はそのような行動を必要としているのだろうか?」,「どのような葛藤を彼はこうして解こうとしているのだろうか?」また「どのようにしてやったら,もっと正しい方法で彼を助けてやることができるだろうか?」といったように考えを進めてゆかねばならない。

○厄介物としての症状
親,教師,その他周囲の人々は通常,子供の問題行動の発現過程を知らずに,むしろその行動が「厄介な代物」であるがため,怒ったり,迷ったり,興奮したりしていることが多い。これはその人々の訴えの言葉の中に如実に示されている。親としての権威が傷けられたという言葉や表情もあるが,それと同時に,しばしばとてもこれではたまらない,耐えられないという言葉がよく出るものである。子供の爪噛み,いらいら,歯ぎしりなどを訴えるとき,「とても私の神経に障って」とか「この子が眼瞼をパチクリパチクリすると,主人がとても辛棒できないと申しますので」とか「私はそれを無視しようとするのですが,それがとても辛棒できなくて」などという言葉がしばしば用いられる。 ・・大多数の学校教師は自分自身が「不快で,どう取扱ってよいかわからない」ような子供の行動にばかり注目して,深い情緒的問題の表現であるにもかかわらず一見したところでは教師の道義や命令や学級規律を侵害しないような行動にはあまり注目していない。
「問題行動」が厄介物の様相を強くもっていればいるほど,早期に治療の機会が恵まれているともいえる。それに反して,重篤な人格上の問題であっても「とても耐えられない」ような様相を呈していないと,いつまでも放置されやすい。すなわちはっきりした安全弁がない以上,基本的な疾患をもつ子供では,自己の苦悩を告げる力がないから,放置されているわけである。困りはてた親の書き綴った分裂病者の生活歴をみると,どれも「患児は静かで,よく勉強し,あまり出しゃばらない模範生であった」と書かれているものである。
 こういった点からみると,症状に対する親の反応は子供の行動が「厄介なもの」であるか否かで決められるといってよい。親の忍耐度は子供に対する情愛の深さ如何にもよる。これが最もはっきり現われるのは2人の子供に同じ症状が現われたときの親の態度である。すなわち親のこの両者に対する基本的態度に差がみられるからである。ある母親が夜尿のためほとほと困りはてて1人の子供をつれてきた。ところが彼女のもう1人の子供にも夜尿があったにも関わらず,それを全く無視していたのである。子供に対し神経質過ぎる母親は自分の子供のチックを自分の神経質な態度以外の原因からきたものと思うものであり,子供に敵意をもつ母親は子供の反抗を彼女自身の敵意の合理化に用うるものである。ところが,やさしい母親は子供の症状について語るときにもやさしい微笑を忘れない。つまり一般的にいって,親の子供の症状を厄介視する度合いは症状それ自体の性質にもよるが,一方では親がそれまでどれほどそれを厄介視するように慣らされてきたかにもよるのである。かつてある会合の席で,現在進駐軍となって外国に駐在する2人の男の子をもつ母親が,子供の頃2人が日曜日の朝,2階から降りてきて居間に寝そべり,漫画の本を読んだ様子を楽しそうに物語ったことがあるが,それからまもなく,もう1人の別の母親が6歳になる男の児をつれて私の病院にやってきた。彼女がいうのには,このTommyは非常に悪い子で,その1例として日曜日の朝早く2階から降りてきて居間に寝ころび,漫画の本を読むというのである。この二つの例はいずれも同じ行動をしているわけである。ただ,子供に情愛をもてぬ母親はそれを辛棒する力が弱いから,容易に興奮し,その行動の中に自分をいらだたせる別の「理由」を探そうとするわけである。
 もう一つ,症状の評価には文化的要素が強く働くことを知る必要がある。たとえば, Pueblo Indianの中では祭日に子供が祭典の太鼓の前を歩いたりするとたいへんな問題行動とされるが,子供が指をしゃぶっていても誰も問題にしない。これに反してわれわれの社会では子供が楽器のそばにいようがいまいが問題でなく,指しゃぶりは問題行動のリストの中に教えあげられるのである。

児童精神医学 レオ・カナー pp.145-148 より抜粋

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